Japanese

Issue 1, Spring 2024 – Writings

ただいま、おかえり、 いってきます、いってらっしゃい。

カトヤマツヨシ

だいたいわかるようになってきた。風邪を引く兆候が出るのは1日前。汚い電子音のアラームで起きると喉は不機嫌で、唾を飲み込むと染みるように痛い。洗面台の鏡の前で携帯のライトをつけ、喉の奥の行き止まりを照らす。ヒトの内側の赤色がマグマのように濃い。喉はいがいがと反抗的なのに、あたまのなかにただよう雲は分厚くソフトフォーカスで曖昧模糊。引き出し奥のオムロンの体温計を脇に挿すと、先っぽの金属がひやっとするのは一瞬で、ピピッと鳴って数字を見て直ちに理解する。微熱だ。

応急処置に、とうがいをしながら、声を出す。上を向いて、がー。水道水が重力に従って当然のように落ちてくるのを息が跳ね返す。水は、口の中で舞い踊っている。そんな想像をして、うがいを続けて、脱衣所に響く濁音を聞いていると笑いが込み上げてくる。ふと油断すると、よくないところに水が入り込む。咳が出る。いがいがした喉は、数回のうがいでは治らない。期待はいつも挫かれる。

親はずっと共働きだった。風邪を引いたと担任に電話をして学校を休んでも、よっぽどのことがないと、親がつきっきり、なんてことはない。それはいつの間にか当たり前で無抵抗、子どもながらにさみしくもないというか、ひとりっ子だったから学校を休んでいなくても、なにかとひとりの時間は長かった。

ベッドに寝転んで、天井を見ていると、家から徒歩10秒の小学校からチャイムが聞こえてくる。あ、休み時間になったのか。賑やかになった校庭に、自分はいない。いつもなら、と考えて、あの授業はどう進んだのか、よく話す人たちは自分を置いてあの話題を派生、展開しているのではないか。そう思うと焦燥感に駆られて、ベッドに縛り付けられている窮屈さと、取り残されている不安にさいなまれる。寝るのにも飽きた。肌とふとんの温度が馴染みすぎている感覚も嫌だった。布団の表面は冷たいままがいい。過敏に、執拗に、そういうことを感じ始めると、いっそう眠れなくなる。しかし、横たわっている以外に行動のオプションはなく天井も見飽きて、横を向けば、カーテンの生地の縦糸横糸が、壁紙の不可解なボツボツが、鬱陶しいほどくっきりと見えてくる。部屋にある時計の秒針は乱れない。それが耐え難い。けれどもなすすべはなく、昼間の光はお構いなしにカーテンの隙間から差し込み、部屋を明るくしていた。

自分は寝転がっている、ただ、それだけ。トイレに立ちあがるだけで、力が要る。こんなにも疲れるのか。ずっと横になっていたからだろう。脳の平衡感覚のフツウが狂っている。フローリングの床を柔らかく感じるというか、足の裏がふやけてしまったような浮遊感にふらつく。こんなに寝てばっかりで血の巡りは大丈夫なのか? と、血のことを考えれば、体内でやや粘度のある液体が足先指先の血管の細かなところまで行き届くのを想像してしまい、たちまち、頭の奥で細長い虫が数十匹ほど互いに絡まりながらのたうち回っているようなむず痒さに襲われて振り払えない。

それにしても、天井はのんきだ。諦めて「あー、つれー」と声に出す。あれ? 気持ちいい。もう一回。

指先でくるくる回して音量調整ができるツマミをひねるイメージで、時計回転、半時計、時計。だんだん大きく、だんだん小さく。あー、つれー。感嘆詞にも山あり谷あり、音の波長に緩急が生まれてたのしくなってきて、別のツマミを回してビブラートも効かせるイメージで声にエフェクトをかけて遊んでいると、われながら、というか、われゆえに、おかしくなって愉快になってくる。勢いに任せて「あー、つれー。てか、そういえばさ」と、最近どうも気になっていたモヤモヤをあけすけに喋ったり、「てか、暇すぎるでしょ」とか、「今日は朝からずっと寝ています」とか、自分が置かれた状況を中継していると、くすっと笑いが漏れる。

30分アニメのエンディングに流れる、その回を締めくくるナレーションの真似をする。「〇〇は、もうずっとひたすら寝ていたいと思った、のであった」とやっぱり、あたまに思うだけではなくてわざわざ声に出してみると、自分やイマ、現在の捉え方が、ふっと引きの構図になって面白くなってくる。「いつもなら、そろそろ塾ですね、でも寝ています」。「冷蔵庫を見に行って、なにもせず戻ってきました」。ひとりでに事実の列挙を淡々と語る。自分について話しているのに、かえってなぜか、自分からどんどん剥がれて離れていくような発話には独特の爽快感がともなうのであった。

orzという気分は、いつの間にかなくなっている。天井を見つめてあれほど深刻だった感覚と思考のオーバーヒートがそれほどでもなくなって、シリアスは風船のように体から、あたまから浮かんで、どっかいく。

小学生低学年の頃、私は、自分の発話が体調によい影響があると知った。言いっぱなし、が、すがすがしい。誰にも拾われず、かといってテニスの球を壁に当て、それが即座に跳ね返ってくるオートメーションに巻き込まれるのでもなく、返事もなく、やったことはないが見晴らしのいい場所にあるゴルフの打ちっぱなしのような発話行為。かといって、ぽつんと横たわるひとりの風邪っぴきと飛距離の数値とか、上達とか、競争は無縁だ。開放感のある孤独。球は物体として、打てばどこかに転がり、誰かが拾わなければそこに残ってしまうけれど、喉がつくり出す音に実態はない。なんて気が楽なんだろう。

私はこう考える。向かい合う相手がいる場合に使う言葉もたしかに楽しいけれど、言葉は相手がいないと成立しません、というほどしょぼいおもちゃではない。会話とか対話とか、ラインとか、メールとか、交換のためだけに言葉は生まれたのか。私はそうは思わない。私は、言葉を、二人以上でしか成立しないおもちゃだとは思えない。ひとりで使えて放り投げるだけの言葉、かたちとしてはなにも残らずに、聞いている人もいない、記憶にも残らず消えていく言葉。そう扱っても怒らないで許してくれる言葉。私はそれに、すりすりしたくなるような親しみを感じる。

風邪を引こう。いや、風邪は引かなくてもいい。「さてさて」。「今日は歩いて帰ってきました」。「いつもよりはやめにベッドに入っています」。ひとり、宛先のない言葉を棒読みで喋る。なぜだか元気が湧いてくる。