Issue 1, Spring 2024 – Writings
真夜中のさえずりに耳をすませろ
Umi Ishihara
もしかしたらここから遠い世界に住む、会ったことのない誰かの悲しみが自分の身体に乗り移っているのかもしれない。
暗くて長すぎる真夜中、ぼんやりと汚れた顔でガラガラのバスに座って、誰も自分のことを待っていない、遠い南にある家に向かう。ほとんど死人のような自分の顔の反射をガラス越しに見てぎょっとする。こんな顔をしていたんだっけ。音楽でも聴けば少しはマシな気持ちになるのを知っているのに、イヤフォンを鞄から探す気力もない。さっきまで楽しく友人たちと酒を飲んでおおはしゃぎして笑っていたのに、一人になった途端、パレスチナで起きている現実に引き戻される。今はもう自分がなぜこの街にいるのか、誰なのかもわからず、しかも外では真夜中だというのに鳥が鳴いている声が聞こえてくる。その爽やかな鳴き声と夜の濡れた寒さがあまりにも不釣り合いで、こうゆう全部のパーツがなんかわかんないけどうまくハマらない時に、遠い国で苦しみもがいている人々の亡霊が乗り移る、なんていうことがあるのだろうか。
高校生の時に読んだエドワード・サイードの本に書かれていた鳥の話を思い出す。鳥は眠ると死んでしまうと思うから、目覚めたときに生きている喜びで鳴くらしい。ということは、闇の中で目覚めた鳥も喜びでさえずるのだろうか。生きていると知った喜びも束の間、ずっと闇を生きている鳥たちのことを考える。もしアタシが元気でさっき鞄の底からイヤフォンを見つけられていたら、おしゃべりをしている声や、車の音など、かき消されて聞こえなかったであろう真夜中の鳥たちのさえずりに耳をすます。「僕らが世界の果てにたどりついたとき 僕らはどこへ行けばよいのだろう?最後の空がついに尽き果てたとき 鳥たちはどこを飛べばよいのだろう?」。パレスチナの詩人マフムード・ダルウィーシュの声と、目の前にそびえ立つ壁と、その上をよろよろと飛ぶ鳥たちを見つめる姿が身体に乗り移ってはまた消える。
余裕でいま生きている自分の身体から、ぶらんと垂れた手やその柔らかい声に呆然とする。本当はおおはしゃぎしていたい、できれば木曜日の夜はデートしたい、たまには生落花生も食べたいしセックスもしたい。でも真夜中の鳥たちの、消えてしまいそうなさえずりとその叫びを、耳をすまして聴く。この世界の暗闇から目を逸らさず、じっと見つめる。そして連帯する。ぶらんと垂れた手を掲げて、柔らかい声を張り上げて。音が鳴り止むその日まで。