Japanese

Issue 1, Spring 2024 – Photography & Writing

絡み合った糸と偽りのウィッグ:文化の流動性

Erika Kamano

Photographer: Erika Kamano
Hair: Waka Adachi
Make-up: Yuka Hirac
Make-up Assistant: Beri
Models: Leiya, Nene, Tia
Creative Direction / Text: Leiya Translation: Noemi Minami
Edit: Lisa Tanimura
English Edit: Amina Mobley
Japanese Edit: Shawn Woody Motoyoshi

アイディア

日本人と黒人のルーツを持つモデル(ネネとティアと私)の撮影を、日本の伝統的な家屋でしたい、というリサのアイディアを聞いたとき、それが視覚言語的な従来の「日本人アイデンティティ」に挑戦し、拡張する機会になりうると思った。私は日本とガーナにルーツを持つ者として、一次元的に描かれる日本人のアイデンティティや文化に違和感を持ち続けてきた。今も昔もずっと日本は多民族国家であるにも関わらず、“単一民族神話”が私たちの集団意識のなかに根強く残っている。

身体的な特徴によって描かれる日本人のアイデンティティや表象は、長年私にとっての重要な論点だっただった。私は誰にも“純粋な日本人”だと見られたことはないし、これからもおそらくないだろう。私に名はなく、異質であり、副次的であり、疎外され、歴史的に築かれてきた日本人観に合う“正しい記号”を永遠に欠いたまま、これからも生きていくのだと思う。多くのマルチレイシャルの人と同様、私は社会的に構築された日本人らしさと、身体的な日本人らしさのはざまの緊張感をひしひしと感じながら日々過ごしている。私たちの主観的な体験は二の次になりがちだ。それが従来の日本人アイデンティティを脅かすようなものであれば、なおさらに。

ただ、一つ気になったことがあった。リサは私たちにサラサラの黒髪のウィッグを撮影でつけてほしいと言った。それがいいアイディアなのか、私には分からなかった。ウィッグをすることで、決められた日本人像の再生産に加担してしまっているのではないかと心配だった。ウィッグをつけさせるのなら、日本人と黒人のミックスモデルを使う意味があるのか?日本的なイメージを多様化することが目的であれば、そのままの自然な髪を写真に収めるべきではないのか?ウィッグでスタイリングをすることで、既存の日本文化の表象を強めてしまっているのではないか?私はリサにそう問いかけた。

それとも、これは何か別のことを示唆しているのだろうか?アイデンティティを示す身体的な特徴がいかに恣意的であるかを表しているのだろうか? 考えても答えはでなかった。しかし、私のなかの社会学者・メディアエコロジスト・文化理論家が、興味を持った。リサの提案を受けることで何が起こるかを知りたかったのだ。実験を重ねることでしか胸のつかえが取れないことは分かっている。それなら早朝に古民家でチョコレートとタバコをつまみながら写真撮影をするのもありじゃない?

問い

ウィッグに対する違和感は、私のライフワークのなかで、繰り返し突きつけられる二つの問いに起因している。「文化とは何か?」「人種的アイデンティティとは何か?」。同じようにマルチレイシャルの人はこの問いに悩まされたことがあるかもしれない。多様なアイデンティティの交差点で生きるとは、それがセクシュアリティであれ国籍であれ、メアリー・ダグラスが言うところの「matter out of place(場違い)」なのだ。 国境を越え、カテゴリーを越えた存在であることは、人間文化が作り出す硬直した冷たい境界線の外に存在することを意味する。

しかし、「Culture(カルチャー/文化)」を定義するのは難しい。この言葉は多くの意味を持ちながら、誰も一言で説明することはできない。最近では、特定のグループのなかで共有された概念やあり方(インターネットカルチャー、Y2Kカルチャー、アジアンカルチャー、オタクカルチャー、ビンボー・スピリチュアリズムカルチャー、クィアカルチャーなど)を指す包括的な言葉になっている。それは、分類できる性質を持っているといえるだろう。また、カルチャーとは、動かないもの、つまり固定されたもの、もしくはそれに近い状態にあるものだと思っている人も少なくないのではないだろうか。私たちはカルチャーを、互いに作用し合う能動的な主体ではなく、作用される客体として考えてはいないだろうか。

同じことが、アイデンティティについても言える。私たちは、人種、ジェンダー、セクシュアリティといったアイデンティティを、固定されたカテゴリーであるかのように考えがちだ。しかし、本当にそうだろうか? そこに新たな意味や主観性を生み出す余地はないのだろうか? メディアやアートの表現を通して、私たちはどのようにアイデンティティの境界を再構築できるのだろうか?

ニュース速報:すべてはフィクションです

こうした問いは、決して新しいものではない。歴史を振り返れば、文化やアイデンティティの言説的性質は、クリエイティブや学術的に探求されてきた。ある学派では、文化とは世界を創造する方法であり、アイデンティティとは社会的に構築されたものであると考えられている。文化的習慣の中心には常にストーリーテリングがあることを考えれば、「世界の創造」はぴったりの言葉のように思う。この文化とアイデンティティの定義には、人間の創造的衝動をとらえる不思議な魅力を感じる。文化とは主体であり客体であり、作品であり、また制作過程の作品と解釈できるのではないだろうか。ガーナ人の父とイギリス人の母を持つクワメ・アンソニー・アッピアの言葉を借りれば、「文化とは、人間性のアンケートのチェック欄ではなく、他者と共に生きるために参加するプロセスなのだ」。

簡潔に言うと、文化とアイデンティティは変幻自在の架空の概念であるということだ。どちらも決まりきった、自然発生的な、言語以前から存在する純粋な真理などではない。私たち人間の生来的な衝動は、日々遭遇する物事を分類するためにアイデンティティを作り出す。違いを識別し、分類わけし、共通したシンボルやコード(言語など)を通じてそれらに意味を与える私たちのこの能力は、名前のない、もつれ合った「違い」の網の目を、国家、民族、セクシュアリティ、ジェンダー、家族といったアイデンティティの共同体へと変化させてきたのである。

アイデンティティと文化は架空のものだと主張するのは、唯我的あるいは虚無的な物言いに聞こえるかもしれないが、聞いてほしい。アイデンティティが架空のものだというのは、それが存在しないとか、物質的なものではない、ということではない。架空のものだからといって、それが正確でないということにはならない。例えば、日本でマルチレイシャルであることは、個人に直感的な影響を与える。家父長制社会を生きる女性であることには、現実的で実質的な問題がある。フィクションであれ、ノンフィクションであれ、これらの経験は、感情的、身体的、そして物質的に感じられることは否定できない。

私がここで問いたいのは、アイデンティティや文化、人種が実在するかどうかではない。こうしたフィクションや分類システムが、権力や支配の体制と結びつき、支配されることで何が起こるか、ということだ。私たちが何を“普通”や“自然”として、何をそうではないとしているのか、考えてみてほしい。さらに重要なのは、そのフィクションが、特定の集団を排除し、否定し、弱らせるために、どのように標準化されているかについて考えることだ。つまり、私が『日本文化や人種的アイデンティティの定義はフィクションだ』と言ったのは、私たちが日本人のアイデンティティのどのバージョンを受け入れ、再生産し、どのバージョンを副次的な存在として、疎外するべきものとみなしているのかを考えてみてほしいからだ。

重みを与えるまでは漂流している

ジャマイカ生まれのイギリスの文化理論家、スチュワート・ホールは、1996年におこなった実に詩的な講義のなかで、私たちが分類するために使うシンボルやシグナルを「floating signifiers(漂流するシニフィアン)」と呼んだ。ホールは、漂流するシニフィアン(記号表現)は生来意味を持つのではなく、社会的・文化的に浸透している言説の文脈で意味を持つ、と主張した。例えば、私たちの肌の色は、人種的アイデンティティとしてよく判断基準とされる。肌の色は物質的と言えるが、その意味は確固たるものでも、永続的なものでもない。文脈によって変化する。

ここで、今回撮影した写真に話を戻そう。ウィッグからちゃぶ台に至るまで、あらゆるイメージが流動的で記号的な目印と考えることができ、それらが持つ意味は誰が何を見ているかによって変化する。ウィッグはそれ自体では意味を持たないが、スタイリングされて誰かの身体に装着されることで、何かしらの意味を持ち始める。この場合は、それが「日本人らしさ」だった。その質感、長さ、色は、ネネ、ティア、そして私が身につけたとき、私たちの身体や歴史と触れ合うことでそれぞれの意味を持つようになるのだ。

クソみたいに蔓延したイメージ

イメージはどこにでもある。まじでクソみたいに、あちこちに。イメージは、現代社会の言語となりつつある。YouTubeの動画、テレビドラマ、映画からミーム、AIが生成した画像、TikTokの動画に至るまで、私たちの世界の表象風景は、社会文化的空間に潜む視覚的テキストに大きな影響を受けている。さらに重要なことは、これまでのどの世代よりも私たち自身がイメージを生産しているということだ。イメージの創造、流通、操作がこれほど身近に簡単にできる時代はこれまでなかった。

フィクションに彩られた象徴的な物質世界の住人である私たちはみな、メディア発信者である。私たち自身が写真家、CMディレクター、雑誌編集者、コンテンツクリエイター、あるいはインターネットユーザーであり、私たちが創造し、配信するストーリーに責任を負っているのだ。私たちは常に、膨大に存在するシンボルを摘んでは剪定し、それらに新しいイメージやテキストを与え、いろんな形でアイデンティティを表現し、表象する方法を試行錯誤しなければならない。イメージが偏在しているからといって、一つ一つが私たちの生活に与える影響が決して薄まるわけではない。

私にとって、今回私たちが作り上げた写真は、アイデンティティの流動性──つまり可動性と主観性を捉えている。このシリーズは、日本的イメージがどのようなものかだけでなく、どのようであるべきかを描いている。権力システムによって支えられ、維持されてきた「日本人らしさ」を押し返すように、私たちに問いかけているのだ。

ある意味これらの写真は、メディアやアートが持つ、物語を再構築する力への賛歌とも言える。私たちのクリエーションは、秩序や正常さといった凝り固まった思い込みさえも打ち砕き、変えることができる。私たちは、長らく語られえてきた人種的「純度」という神話を過去のものとするために、視覚的テキストで多様な主体性を積極的に表現しなければならない。そうでなければ、硬直性を選ぶことを意味する。そして、硬直性を選ぶことは、属するべきものたちを進んで排除するということになる。

ダナ・ハラウェイの美しい言葉がある。「どのような事柄を使って他の事柄を考えるかが重要であり、どのような物語を使って他の物語を語るかが重要であり、どのような結びが結び目を結び、どのような思考が思考を考え、どのような縛りが縛り目を縛るのかが重要である。どんな物語が世界を作り、どんな世界が物語を作るかが重要なのだ」。